心のもやもやと向き合う

~SNSとウィシュマさんと外国人のことなど~

所長 毛利 一平

  なんだか最近もやもやすることが多いです。いや、もやもやというよりも、心がささくれ立つとでもいえばいいのか。いや~な感じです。

 コロナのせいでしょうか?

 それもあるかもしれませんが、それだけではないです。自分でもわかってます。SNS-ツイッターだとか、ネットニュースだとか、テレビだとか。あちこちから流れてくる情報だったり、言葉だったり。多分そのせいです。何でもかんでも「いいね」と「いやだね」、あっちとこっちに分けて、そこらじゅうで言葉をぶつけ合う。罵り合いのような激しいやり取りも日常茶飯事です。

 そんなものいちいち気にしないで、SNSを見なきゃいいじゃない、と思います。でも、そこで流されている暴言だとか、デマだとか、人を傷つける言葉や情報に対して、ただ黙っているのは卑怯じゃないだろうか、自分もそうした行為に加わっているのと同じなんじゃないのだろうか、そんなふうに思ってしまうから、見るのをやめられない。かといって、自分の意見を発信するほどの勇気もない。だからもやもやするし、心もささくれ立つのです。

 特にこの半年ほどの間、難民や非正規滞在の外国人をめぐるやり取りは、ほとんど外から見ているしかなかった自分にとって、とても苦しいものでした。

 ことの発端となった名古屋入管でのウィシュマさんの件、あれは虐待、あるいは緩やかな拷問といってもよいものでした。でも、同じようなことを繰り返してはならない、そのために何ができるか考えようという声に対して、返ってくるのは、いやなら帰れ、そもそも来なくていい、などという言葉です。ウィシュマさんがなぜ日本に来て、なぜ帰れなくなったのか、おそらくほとんどの人がその背景を正しく理解しないまま、そんな言葉を投げあっていたのではないでしょうか。

 法律に反したのだから仕方がない、という言葉も繰り返し聞きました。でも正式な許可がないまま日本に滞在することって、死を持って償わなければならないほどの罪でしょうか? 断じてそんなことはないはずです。

 非正規滞在の外国人たちに少しでも医療を届けようと、無料の相談会にボランティアで参加しています。ひまわりの診察室でも、まれにですがそうした人たちを診察することがあります。医療資源は無限ではないとか、自分たちの税金をそんなことに使うなとか(この言葉も本当に嫌な言葉です)、たくさんの反発があることは知っていますが、医療に携わる者としてどうしても見過ごすことはできず、できることをやっています。

 診察室の中だけでの短時間、病気のことを中心にみていると、どうしてもその人たちが置かれている状況まで理解することは難しいです。それでも長い時間をかけることで、たくさんのことを共有できます。

 アフリカ出身のある家族とは、もう6~7年になるでしょうか。初めて出会ったとき、みんな仮放免でとても不安定な状態でした。お母さんは高血圧で定期的な通院が必要でしたが、お金がなく、支援団体のサポートを得ながら生活をし、通院していました。何よりも入国管理局からの呼び出しを恐れていて、出頭しなければならない前後ではどんな薬も血圧を下げることができませんでした。

 唯一の救いは、日本で育った娘さんが学校で元気に過ごしていることだったと思います。スポーツも勉強もでき、バスケットボールで代表選手になるほどでした。診察室でお母さんに向かって、必ず日本で暮らせるようになると繰り返し励ましていました。

 数年前、無事に在留許可を得られたときは、ご両親と一緒に診察室で喜び合いました。入管への定期的な呼び出しがなくなって、お母さんの高血圧はすっかり良くなりました。いかに大きなストレスになっていたかがわかります。娘さんは高校を卒業し、今は看護師になるための勉強中です。お父さんはちょっと大きな病気になってしまいましたが、頑張って治療を続けています。

 どこにでもある話、どこにでもいる家族なのです。外国人であることを除けば。この人たちが普通に暮らしていける日本であってほしいと思っています。

 SNSやインターネット、あふれる「情報」にばかり目を奪われていると、つい自分は少数派なのではと思ってしまいがちです。でも、相談会にいけば毎回たくさんのボランティアが参加していますし、自分は一人でもないし、決して少数派でもないと確信することができます。だから悲観する必要はないし、嘆く必要もない。SNSだけで「本当」を知ることは絶対にできない、靴を履いて外に出て、実際に人と会って、話をしなければ絶対にわからない。

 ここしばらくのもやもやした自分を振り返ってみて、いま改めて感じていることです。