老いを想う
所長 毛利 一平
としをとるのはステキなことです
そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです
そうじゃないですか
悲しい記憶の数ばかり
飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか
(中島みゆき『傾斜』1982年)
去年60歳になったとき、はっきりと「そうか、もう時間はそんなにないんだ」と実感しました。
59歳までは何かにしがみつくかのように、「まだ大丈夫…」と思っていたのですが、(1)一度座るとゆっくりでないと立てない、(2)忘れる ― 人の名前も、薬の名前も。それでもってどうしても思い出せない(いろいろと手を尽くして確認しなきゃいけない)、(3)障害物のない平らな床でつまずく、(4)トイレでやたらと時間がかかる(ええ、オシッコの話です)、などなど、次々と「不都合な真実」を突き付けられてはもうどうしようもありません。
ヒトが自分ではどうすることもできない、理不尽な状況 ― ここでは「老い」― に陥った時、最終的には受け入れる(あきらめる?)のですが、それまでにいくつかの段階があるといわれています。
最初は「それ」に気づいてドキッとする。例えば近しい人の名前が出てこなくなったときとかですね。「まずい」って思いますよね。歳のせいなのか、認知症の前触れなのか?なんて。
次は「いやいや、何かのまちがい」なんて否定する。否定して何とか平静を保とうとします。実際、初めは思い出せないことのほうが少ないですから、「この間思い出せなかったのは、たまたまよ」なんて自分に言い聞かせることもできるわけです。
第三段階はじたばたする…でしょうか。ウォーキングやジョギングを始めたり、ジムに通い始めてみたり、脳トレをやってみたりして、老いにあらがおうとする。あ、ちなみに私自身は今このあたりにいますかね。かなりじたばたしている自覚があります。
そして最終段階。繰り返し、しかも時間とともに進む衰えという現実に向き合いながら、じたばたしてもしょうがない、うまくやっていくしかないとあきらめたり、これもまた生きることと納得?したり。
冒頭に掲げた中島みゆきの曲は、彼女が30歳の時の作品です。後半の2行からは老いに対する悲しみというか、むしろ怒り?すら感じます。
親を思う子供とか、まだ自分のこととして考えられない若い人が、老いて衰えていく人の嘆きに接して、その理不尽さに「なんで神様はこんな苦しみを与えるのか」と怒るような感覚、でしょうか。私自身も昔感じていたことがあるような気がします。
でも実際60を過ぎてみると、案外そんなでもないな、とも思っています。
そもそも忘れるのは最近のことばかりで、昔の恥ずかしい思い出なんかがひどく鮮やかに思い出されて、つい「バカ…」なんて独り言を言ってみたり。むしろ、古い記憶から順番に消えていけば、どんなに楽だろうと思うことさえあるくらいです。
60年生きてきたことで、ようやくわかるようになったこと、できるようになったこともあります。第三段階は案外楽しいかもしれない。じたばたしていればドキドキもワクワクも、まだまだあります。そんなことに気づかされている今日この頃です。
中島みゆきの暗い曲で始めてしまったので、なんだか調子がくるってしまいました。いや、秋のせいなのかもしれません。五十路を過ぎた竹内まりやの、明るくて(?)それでもって切ない歌で終わっておきましょう。
君のデニムの青が
褪せてゆくほど
味わい増すように
長い旅路の果てに
輝く何かが
誰にでもあるさ
I say it’s sad to get weak
(衰えるのが悲しいと私)
You say it’s hard to get older
(老いることがつらいとあなた)
And they say that life has no meaning
(人生に意味なんてないとみんな言うけれど)
But I still believe it’s worth living
(それでも生きることに意味があると私は思う)
(竹内まりや 『人生の扉』 2007年 和訳:毛利)