皆さんはお金が有ったら何に遣いますか?

看護師 田中浩世

 「医療の届かない所へ医療を届ける。」 「いちばん格差があってはいけないのは医療だ。」NPO 法人ジャパンハートの吉岡秀人先生のCM を皆様ご存知でしょうか。ジャパンハートの活動は災害の場や離島での医療、Covid -19のクラスター病院への派遣などその時必要とする様々な場所へ医療を届けております。その一部にカンボジア、ミャンマー、ラオスなど海外での活動があります。

猫にお札

 「コロナ」という言葉が日本で聴かれ始めた2019年の年末、私は吉岡先生のミャンマーでのミッションに短期ボランティアとして参加しました。その頃のミャンマーは情勢も安定しておりビザ不要で入国できました。タイ経由でマンダレーに入り市内で1泊し、翌朝タクシーで1時間強のワッチェに入りました。

 ワッチェ慈善病院に到着すると、先に行っていたメンバーが入院の為のベッドを準備しながら迎えてくれました。そこに集まっている人たちはお金を工面してボランティアに参加する志のある日本人です。中にはブランドのバッグを買うより、自分の道に活用するからこちらに来たという話を聞きました。ここにはお金では買えない物が沢山あったのです。お金を貰っているから働くのとボランティアで希望して働かせて貰うのとでは意味が違い、人の役に立てるやりがいみたいなものを私も感じました。そこで自分の本気ってどれくらいなのか⁉ 挑戦して来ました。

 朝5時に長い一日が始まります。眠い目を擦りながら近くの寺院を目指し真っ暗な道を雑巾や箒を持ち、連なって歩いて行きます。長い石段の上の寺院に到着し、先ずお掃除をし、その後瞑想をして気持ちを整えます。宿舎に戻る頃にやっと薄日が差し、宿舎の掃除をしてからラジオ体操、朝食を摂り病院に入ります。

 ここからが吉岡先生のミッションのスタートです。

 1日に20件前後の手術件数がその日も予定されておりました。手術室に患者さんが入室し退室し、今の手術は何件目なのかわからなくなる位の果てしなさも感じました。私が看護師になり初めての配属先は手術室でした。だからこそ私には気付くことがあるのです。それは、大きな腫瘍を摘出した後の縫合の時でした。じわじわと血が滲み出て、拭いているガーゼが真っ赤に染まり、もう拭けるところがなくなっていました。当然次の新しいガーゼを準備しなくては手術がスムーズに運べないと感じ気を利かせて持って行った所、注意を受けてしまったのです。ここに有るもの全てを寄付で賄っているので、何一つ無駄に使えないと言うのです。この出来事で物の大切さも痛い程学んで来ました。麻酔薬も最小限で使用するので、縫合するスピードが早い事や縫う糸も工夫して見事に無駄なく使いきっておりました。

 また、手術中に度々停電が起こります。日本では考えられないことですが、そんな時は郷に従い懐中電灯で術野を照らしたり自分にできる役割を見付け動きました。そして昼食や夕食を摂った後も、手術はまだまだ続きます。その日も連日で、深夜2時位になりました。その後、手術室の掃除をして再び宿舎に帰る頃には、もう自分の事なんてどうでもよくなります。やっと3日目にチョロチョロしか落ちない貯めた水で体を洗いましたが、周りの皆も疲れてそのまま寝るだけです。こういった究極の日程をこなすと不思議と満たされた気持ちでいっぱいになります。

 元々は友達が長期ボランティアに参加していたので会いに行く位の不純な気持ちでの参加でしたが、私の長い人生の中で一番価値ある時間が過ごせたと思っております。私の限られた時間を今後も最大に使える様に活動していきたいと感じながらミッションを終えました。

 今でもよくこの時のミャンマーでの出来事を思い出します。

 そう、初めてミャンマーに泊まった翌朝、マンダレーに昇る朝日が穏やかだった記憶は今でも色鮮やかに覚えています。数時間後から始まるボランティアに意気込みみたいなものを感じつつ異国の陽が眩しくなるのを静かに見ていたのが、つい昨日の事のように浮かんできます。それからホテルの支払いにカードが使えなく、両替の為に私を50cc のバイクの後に乗せて走らせてくれたホテルマンと通った道。あの大通りで銃弾が飛び交って亡くなった方達をテレビで見た時は愕然としました。他に手立ては無かったのか、ミャンマーで関わった方々の笑顔が浮かびます。2021年6月25日現在、軍事クーデタ以降の武力行使による死者が880人になったそうです。そして今も続いています。早く穏やかだった日常に戻って欲しいと強く念じております。 

 余談ですが、ワッチェでの宿舎は2階建てで1階2階合わせて10部屋位ありました。1部屋5人位の定員です。病院から疲れた身体を運んで戻ったとき、1階の入り口近くの部屋の方が非常に羨ましかったのを思い出します。凡そ6畳の部屋の中では、3人は床にマットレスを敷いて寝て、2人は2段ベッドの上下で寝るのです。私は2階の2段ベッドの上をあてがわれました。消防訓練に使うような幅の広い梯子が垂直に架かっているだけです。そこを1日に数回上下します。上がる時はなんとかよじ登り、降りるときは何とも無様な恰好で必死に床に辿り着く感じです。1階で食事を摂った後、たった5分でも空いた時間があれば横になりたくて、若い皆と各部屋に散らばり休憩します。そんな時、2段ベッドによじ登って降りる時間を考慮すると私だけ3分しか休めない計算になります。歳のハンディもなく、息子と同年代の高校生の子と同じ行程をこなすには大変不利な条件でした。

 また若ければ顔を洗うだけで済むところ、人前に出るには化粧をしない訳にはいかず、またその化粧は落とさなくてはならず、加齢に伴いやらなくてよい仕事もこっそりこなしておりました。

 異国の地で会えた友達ともゆっくり話もできませんでしたが、私くらいの年齢の方もボランティアに来るのか尋ねた所、この間50~60代の方が来たけど途中でリタイアして帰っちゃったと言っておりました。

 あくまでもボランティアなので、参加も中止も自由で、活動も全て自由なのです。そんな中、アドレナリンが出ていたお陰か完全燃焼できた事は本当に良かったです。

 そして次回は、シニア向けのプログラムが出来たらまた行きたいと考えています。