打つべきか、打たざるべきか
~新型コロナウィルスのワクチンの話(2)~
所長 毛利 一平
去年の今頃、1年後になっても新型コロナウィルスに苦しめられるとは思っていませんでした。1年遅れのオリンピックがそれなりに開催されるぐらいには落ち着いているんじゃないかな、ぐらいには思っていたと思います(まだ、今ほどオリンピックが嫌いではありませんでした)。
でも東京では、第1波、2波、3波・・・ときて、どうやら第5波に入っているようです。ひまわり診療所にも、連日発熱や風邪症状を訴える患者さんがPCR検査を希望してこられます。今のところ、これまでで一番陽性率が高いかもしれません。
いったいいつまで続くのか、考えるだけで気がめいります。
ヒトにとって、先が見えないというのは何よりもつらいことです。だから、「自粛疲れ」で人と集まったり、食べたり飲んだりしている人を見ても、僕自身はそれを責める気にはなれないです。
僕自身はコロナ前よりもずっと忙しくなってしまったので、あれこれ楽しむ余裕はありません。緊急事態宣言下でなければ、日曜日の早朝に仲間たちと一緒にサッカーをやってますけれど、それだけです。食事もお酒を飲むのも、ほぼ一人。本当につまらないです。日曜日だけの、スペシャルな晩御飯として時々食べていたM本のお弁当も、ほぼ全種類を食べつくした、かもしれません。
早くコロナ前に戻りたいです。
前置きが長くなりすぎました。
前回に続いて、もう一度ワクチンの話です。
あちこちで接種が進むようになって、1週間に6人(!)から始めたひまわりでも、今は36人まで増やしています。本当はもう少し、50~60人くらいまで増やそうとしていたのですが、ニュースで報じられている通り、分配されるワクチンの量が減ってきています。なかなか思うようにはいかないものです。
これまでのところひまわりでも、毎月手伝っている区の集団接種でも、重大な副反応を見聞きすることはありませんでしたし、打とうか打つまいかと迷っている人から相談されることもほとんどありませんでした。
皆さん、打つ、打たないが思いのほかはっきりしていて、ここまでは淡々と進んできた印象です。
でも、そろそろ風向きが変わってきているのかもしれません。
これからのワクチン接種は、比較的副反応が出やすいとされる若い人が中心となりますし、接種後の死亡事例などの情報も伝わりつつあります。ワクチンを打つか打たないか、議論が激しくなってくるのだと思います。
ひまわりでワクチン接種を行うぐらいですから、僕の立場は「(納得できるなら)ワクチンは打てばよい」、です。ただし、「打つべき」とは言わないですし、「打たない」と決めた人を非難することもありません。
歯切れが悪いですか?
歯切れが悪い理由を説明しておきます。
まず副反応です。新型コロナワクチンに関しては、接種後の死亡事例との因果関係を全く認めようとしない専門家も少なくないようですが、それは間違っていると思っています。ワクチンは臨床試験で十分に安全性が確認されているように言われますが、10万分の1であるとか、100万分の1といった確率で起こる問題を試験によって事前に確認することはできませんし、後から因果関係を証明することもできません。
コロナウィルスに感染する確率よりもずっと低いと言われても、自分でワクチンを打つという選択をしたことで重大な(生死にかかわるような)副反応が生じてしまった場合、どれだけの苦痛を伴うか想像することはできますし、その不安や恐怖を共有することもできます。
そして、もう一つ。そうして起こった重大な問題に対して、医療は責任を背負いきれないのです。
ワクチンを打って、重大な副反応が生じた。だからあなたが責任を負え、と言われても到底負えるものではないのです。だから、ずるいようですが、「ワクチンを打つのは一人ひとりが決めること」と言い、万が一の場合に備えて、国による補償制度があるのです。
一方で、ワクチンを人体実験のようにとらえたり、製薬企業の金もうけの手段としてとらえたりすることで、ワクチンを打とうとしないことにも同意できません。そのような見方は科学の進歩に対する敬意を欠いていますし、より厳密で、より開かれた医学を築くための、数多くの努力を顧みようとしない態度だからです。
そう、30年前、僕が医学の世界に足を踏み入れた頃、医学はもっともっと野蛮で、いい加減だったのですから。ワクチンに対する根拠の薄い非難は、僕たちにとっては天に唾するようなものなのです。
う~ん、なんだか全然うまく説明できていないのですが、もう紙面もありませんし、締切りもとうに過ぎてしまいましたので、今回はこの辺で。足りないところは、診察室でお話ししましょう。
道具や機械を使わずにどうやって抜くかを導き出すのも科学