コロナ禍で考える
MSW 高山俊雄
今から20年ほど前までは春の息吹を感じる3月末になると、毎年伊豆松崎の大沢温泉に家族で行っていた。利用は10年以上になると思う。めったにそうしたことをしない私がたまたま温泉宿を探していた時に見つけた宿であった。旅館の名前は「大沢温泉ホテル依田之庄」。写真に紹介されているそこの旅館の前の桜並木が見事で、是非一度行きたいと思ったからであった。
伊豆の下田からバスで35分、大沢温泉入り口で下車すると歩いて3分ほどで宿がある。いくら写真で行ってみたいと思っても、実際の場所に行ってみると興ざめすることはよくあるが、大沢温泉は違っていた。桜並木は小川が流れている両岸に咲き誇っているのだが、川に降りられるようになっており、岸壁に続く3m~4mくらいの幅で土の部分が盛り上がっている。それが両岸にあり、そこに実に多くの春の花々が咲き誇っているのである。川に架かる橋の上から見ると、紫色の大根の花、黄色の菜の花、ピンクの桃の花々が多数自生している。それらを護岸の桜並木が包んでいるように見えるのである。川全体の幅は10m程度なので、春の花が咲く土の部分の間を流れる小川は2~3mの幅で流れている。この景色を見た私は、すぐにこの景色の虜になってしまった。恐らく、東京では決して見ることのできない風景を見たことで、毎年の旅行になったのだと思う。これが旅館の前の景色なのである。宿としての始まりは340年前だというのだが、私が利用した頃の建物は50年くらい前からの旅館であったと記憶するし、文化遺産の庄屋屋敷をホテルに改造したものであったらしい。旅館の風呂は檜で作られており、やや温(ぬる)めであった。
ところが、昨年暮れにその閉館を知ることになった。その情報がテレビであったのか、新聞であったのか、あるいは別の情報源があったのか定かでないが、ともかく間違いなく閉館になっていることをネットで確認することになった。その原因は明確ではないが、私はやはりコロナによって利用客が少なくなり、経営できなくなったのではないかと考えている。家族にとっては多くの思い出のある旅館だけに閉館と共に何か思い出も一緒に跡形もなく消えていくようで、実に寂しい気持ちになった。
昨年からのコロナ禍は、こうした歴史と伝統あるさまざまな店の継続を許さなくさせている。例えば、歌舞伎座の前に店を構えていた弁当屋の「弁松」は昨年4月20日で閉店してしまった。歌舞伎の興行がコロナによって出来ない中、弁当の売れ行きも芳しくなく、閉店せざるを得なかったという。創業が明治元年(1868年)というから、150年続いた老舗であった。但し、今でこそ歌舞伎座の前の弁松と言うが、歌舞伎座が建てられたのは明治22年(1889年)であるから、歌舞伎座の客をあてこんでのことではなかった。又、日本橋に弁松総本店という店があるが、総本店側では暖簾分けではないと言っているそうだ。亡くなった私の母が歌舞伎座見学の帰りに良く買ってきてくれたのを覚えているが、濃い味付けの弁当であった。
ところが2月初め、テレビを見ていたところ、柴又「川甚」の閉店ニュースを見て驚いた。この店は川魚を中心とした店であったが、結婚披露宴などでも多く利用されていたらしい。約230年の歴史を持つ老舗であった。ここの御主人がテレビのインタビューに答えて話していたが、どこかで手を差し伸べられなかったのかと思わざるを得ない。というのも、従業員に退職金を支払えるギリギリのところが今だったと、御主人が声を振り絞って話されているのを聴いて、この社長がいかに従業員のことを考えている経営者であるかを強く感じたからであった。そして従業員の人たちも「ここを辞めたくない」と発言しているのが映し出されていた。私は川甚に入ったことはない。ただ、かなり昔市川から伊藤左千夫の「野菊の墓」の石碑を見て江戸川を矢切の渡しで柴又まで行ったことがある。川甚はそこからすぐ近くにあった。当時の私には、川甚はちょっと寄ってみようかという店ではなく、改まった時に食する場所という印象であった。
こうした店の閉店のことを考えてみた。これは何を意味するのであろうかと。長い伝統を持つ店が無くなるというのは、その伝統が失われる事であるから、長い時間をかけて人が連綿と積み上げてきた一つの文化が失われるという事でもある。時間をかけて続けてきたものを失うと、それを新たに作ろうとするには多分失う時点の倍以上の人のエネルギーと人間の想像力が必要になるだろう。そして、そこに新たに作られるものは、決して以前と同じものではなく、新しい価値をもつものになっているのだろう。例えば14世紀に発生したペスト後のルネッサンス、20世紀に発生したスペイン風邪後に作られた国際連盟という世界が一つになろうとする動きに表れている。きっとこのCOVID-19後には男女の差がなく、貧富の差が限りなく少ない新しい社会体制が構想されると私には思えてならない。