「ひまわり」とのご縁を大切に福島へ
医師 本田徹
水涸(か)れの 楢葉の畔(くろ)の 廃棄物
のっけから、下手な俳句ですみません。
稲を刈り取った後の、冬の水涸れの田んぼは、そうでなくても、寒々とした光景ですが、6年前初めて訪れた、福島県双葉郡の原発事故被災地・楢葉町では、さらに荒涼とした、ある意味で救いのない景色が広がっていました。当時、田畑の畔道に並べ置かれていた、黒色のフレコンバッグという、低濃度放射性廃棄物を詰めた異様な風物(?)の行列が私の眼を射たのだと思います。
2012年からご縁があって、いわき市にある福島労災病院に週一度外来のお手伝いをさせてもらいに通い、事故以来双葉郡から避難していらっしゃる住民の方がたの、さまざまな悩みや健康問題にもすこしずつ触れるようになりました。また、原発事故処理の関連で、全国各地から作業員として呼び寄せられている人たちの中で、メタボリック症候群や糖尿病、高血圧などを発症または悪化させて、病院に来られる患者さんを数人診療するようになりました。
そんな中、楢葉で600年以上続く室町時代からの古刹、宝鏡寺の早川篤雄住職の知遇をいただきました。師は離散した故郷の人びとが楢葉に帰ってくるときにすこしでも支えとなるようにと、避難指示が解けるといち早く寺に戻り、ご自身の体を一種炭鉱のカナリアのごとくに、モニターまたは警報装置に仕立て、どこへ行くときも線量計を携行し、24時間365日被ばく線量を測り続けています。
もともと彼は、フクイチ(福島第一原発)が建設される前の1960年代後半、高校の青年教師だった時代から、原発のリスクを科学的に研究し、有志とともに反対運動を続けてこられた、筋金入りの環境保護論者です。いまは、原発事故被害地域住民による、福島地裁いわき支部での集団訴訟の原告団団長になっておられます。
いま楢葉にも住民が少しずつ戻ってきていますが、やはりお年寄りや生業のある単身者が中心で、子育て世代の家族の帰還はそれほど進んでいません。高齢者も車が運転できないと地域で暮らしていくのが困難です。また、ご自宅に住む高齢者や障害者も、いったん病気が悪化すると、村外のいわき市内などの医療機関に搬送されることとなり、家で生をまっとうすることはほぼ許されていません。そうした問題の解決のために楢葉の北に隣接する富岡町に、今年春、ふたば医療センター付属病院が完成しましたが、広大な双葉郡の夜間の無医村状態の解消はまだまだ先となることでしょう。
私は、広野町にある高野病院に昨年10月にできた訪問看護ステーションに注目し、そこにささやかにでもお手伝いできないかということで、来年から平日を中心にお世話になる予定です。
もともと、まだ若かったころ、農村医学のメッカ信州の佐久病院で臨床医として鍛えていただき、プライマリ・ヘルス・ケアの恩師と感じている、故・若月俊一先生の不肖の弟子として、最後は農村地域の医療に数年間は老骨に鞭打って(笑)、ぼちぼちがんばっていきたいと思っています。
ひまわり診療所で月1度だけ働かせていただいた11年間は、たいへん貴重で幸いな経験となりました。医療機関としてはたとえ貧乏でも(笑)、志高く、心の懐の広く深い創立者の平野敏夫さんの温かなスピリットに満ちた、患者さん本位の素晴らしいクリニックだと思っています。また今後もいろいろな面で連携したり協力したり、学びあいが続けられるとよいですね。
では皆さまの引き続きのご活躍とご健康をお祈りして、ひとまずのお暇乞いをさせていただきます。(2018年12月6日)