地理学者のユウウツ

所長 毛利 一平

「とってもきれいなところですね。大きな海はありますか?」

「どうかのう」

「ええ!?」王子は内心がっかりしてしまった。「じゃあ、山は?」

「さて、知らぬのぅ」

「じゃあ、まちとか大きな川とかは?」

「それも知らぬのぅ」

「あなたは『ちりがくしゃ』なんでしょ?」

「そうじゃよ」地理学者は答えた。「だがわしは探検家ではないからの。この探検家という人種が、わしには絶対的に不足しておるのじゃ。良いかの、町や河、山や海に大海、それに砂漠などの数を勘定するのは地理学者の仕事ではないのじゃ。地理学者は偉いからの、うろうろしたりせずに書斎にこもっているものなのじゃよ。その代わり探検家らに会うわけじゃな。質問をして、彼らの見てきたものを書き記すのじゃよ・・・」 (サン・テグジュペリ「星の王子さま」、第15章「王子さま、地理学者と出会う」)

 

 治療をしても同じ病気で病院に戻ってくる人がいる。一人の病気を治療しても、また次の人の同じ病気を治療しなきゃいけない。そんな「賽の河原で石を積むような」医療をしたくはないと思っていました。

 ひとが健康を害する原因は大きく二つ、人々が持つ生物学的な特徴(遺伝など)と、その他のすべてをひっくるめた環境にあります。延々と治療を繰り返したくないのであれば、環境を変えなければなりません。

 ボクが専門とする労働災害・職業病の世界はその典型的な例で、環境、つまり仕事の環境(有害物があるかどうかなど)や条件(労働時間など)を変えることができない限り、そこで働く人たちは繰り返し同じ病気を得、あるいはけがに悩まされることになってしまいます。青島刑事(『踊る大捜査線』)のセリフではありませんが、「病気は診察室で起きているんじゃない!職場で起きているんだ!!」ってことです。

 診察室から飛び出して、現場を変えたい!あっちの工場で有害物の調査をしたい、こっちのオフィスでストレス対策を考えたりしたい、とは思ってみても、今のボクは亀戸7丁目の町医者です。まずは診察室に座っていることが大事(ま、ちょこちょこと産業医の仕事に出かけはしますが)。現場に出かけたい気持ちがわいてきたときは、星の王子さまの地理学者を思い浮かべることにしています。

 この地理学者、物語的にはまったく現場を知らない、頭でっかちの、イケてない老人のように書かれています。ボクも昔は、何となくやなやつ、ぐらいにしか思っていませんでしたが、今はその役割がよくわかります。

 どんなに優れた探検家でも、たくさんのものを見て、記録することは難しいでしょう。地理学者がいて初めて、たくさんの情報や経験が整理されて受け継がれ、広がり、やがては世の中に影響を与えるのだとすれば、(傍から「現場を知らないやつ!」と非難されたとしても)その仕事はやはり大切です。

 実際、星の王子さまが地球のことを知ることができたのも、この地理学者がいたからでしたしね。

 2017年の1年間、振り返ってみればぽつぽつとですが、(診療所が得意とするじん肺以外の)労災・職業病の方を診る機会がありました。あっちのクリニック、こっちの病院と渡り歩いた末に、ひまわりへとたどり着いた方が少なからずいらっしゃいます。残念ながら、探検家の言葉を信じようとしない地理学者、いや、「仕事で調子が悪くなったんです」という患者の一言を信じてくれない医者は、案外少なくないようです。

man with glasses

 「働き方改革」と唱えるだけで労災・職業病がなくなるわけはありません。2018年、今年も診察室という小さな窓から、患者の言葉を頼りに、働く人の健康について考え、発信してゆきたいと思います。

 

注)今回、星の王子さまのテキストについては、『星の王子さまミュージアム』ウェブサイト上の「みんなで訳そう!インターネット版「新訳・星の王子さま」」の中から「儂」を「わし」とひらがな表記に改変し、引用させていただきました。