先日長野にある『無言館』館長の窪島誠一郎氏の話を聞く機会があった。窪島氏と言ってもすぐにピンと来ない人もあると思う。氏は作家水上勉の息子さんであるが、水上氏がまだ世の中に作家として出ていない無名時代、同棲していた女性との間に出生されたようである。その後、水上は生活が苦しく子供を育てることができず、ある靴屋さんに子供を託すことになる。その靴屋さんが窪島姓であった。夫婦に子供はいなかった。
さて、無言館であるが、これもご存じない方も多いと思う。太平洋戦争末期、多くの学徒兵が特攻隊に志願し、若き生命を沖縄近海に散らした。あるいは中国大陸に戦死していった。その学徒の中に画学生として旅立ち、多くの絵を残していかれた方々がいた。それらの絵を窪島氏を中心に時間をかけて全国に回収の労を取り、集められた絵が飾られている美術館といってよい。
窪島氏が何故、そうした絵画を収集するようになったのか。そこにはもう一つの物語がある。それは、画家村山槐多の絵と窪島氏との出会いである。窪島氏は氏の養父の靴屋を改装しスナックをやっていた当時、たまたま赤の色彩に魅せられて村山槐多の絵を購入する。その絵を店内に飾っていたところ、お客の中で、こうした絵を飾るセンスを褒められると同時に、槐多の成育歴を教えられた。大正生まれの槐多は、絵を描くことに取りつかれ、従兄にあたる洋画家山本鼎に批評を求め、鼎がフランスに行っていた時にも、船便で絵を送り感想を求めた。こうして夢中に絵に没頭したためか当時は不治の病の結核に罹患する。山本鼎が長野にアトリエを持っていた関係で、槐多も長野にいく。が、当時スペイン風邪が流行っていて、彼は高熱の中、2月の戸外で血を吐いてなくなってしまうのである。享年22歳。同じように夭折した関根正二などの画家たちの絵を収集し、『信濃デッサン館』として発足した。こちらの方が先に作られた。無言館は信濃デッサン館のすぐそばにある。二つの美術館は共に若くして亡くなった画家たちの画業を大変苦労して収集し、展示しているということであろう。
さて、窪島氏の生みの母の名前は知らないが、その母は、82歳の時自死したと伝えられている。また、父親の水上勉氏との再会は窪島氏が35歳の時であったという。