2008年8月、ボクの新しい職場となった労働科学研究所(労研)は、1921年に創設された民間の研究所(財団法人)です。名前の通り「労働」について考える研究所で、倉敷紡績・倉敷絹織(今のクラボウ・クラレ)の経営者だった大原孫三郎によって作られました。ちょうど「女工哀史」の時代で、自らの工場で働く女工たちの厳しい労働に心を痛めた大原が、労働環境や労働条件の改善のために作ったという歴史があり、国内でも、また世界的にも知られた研究所でした。
私自身、大原とは同じ岡山県の出身ですし、親しい友人たちが働いていた研究所でもあり、異動することになった時はちょっとばかし喜びました。あ、「ちょっとばかし」というのには理由があって、このころ「研究所」と名の付く場所はどこも経済的に厳しく、国の機関であろうと民間であろうと、とにかく競争しろ、研究費も自分たちの給料も、とにかく競争でとって来い、ダメなら諦めな・・・なんて雰囲気になっていたからです。
研究所の収入源は、主に現場(職場)で労働環境や労働条件の調査を行って、改善の提案・お手伝いをすることで企業からいただけるお金です。昔は財団法人への国からの補助金などもあったのですが、私が入った時はすでにそうした収入はなくなっていました。
とても残念なことなのですが、企業にとって安全衛生にかけるお金というのは、多くの場合「余計なコスト」と考えられている現状があって、私たちがどんなに手間暇をかけて調査を行い、報告書を書いたところで、世間並みの給料になるほどのお金をもらえるわけではありません。
運が悪いことに、入職直後の2008年9月にはリーマンショックです。研究所の収入は減り、少ない収入を分け合うために雇用調整が行われることになり、空いた時間で各自アルバイトをするなどして生き延びることになりました。
研究者という人種は面白いもので、好きな研究に没頭できる環境さえあれば、給料などは2の次3の次、というところが少なからずあります。ただし、独身であれば。子供がいて、家のローンもあって、となるとそんなきれいごとは言ってられません。いつの間にか研究所での仕事とアルバイトが半々ぐらいになっていたでしょうか。
研究所は厳しい時代を何とか生き延びて、今でも活動を続けています。踏ん張った仲間たちを誇りに思いますが、ボクは踏ん張りきることができず、誘われるがままに次の職場、三重大学医学部に移りました。
現場主義の労研では、いくつかの職場で調査を行い、また労働環境の改善などに取り組むことができましたが、自分が望むほどには労働の現場との接点を持つことができず、いつももやもやしていました。研究部長という役職にあったことで、あちこちから専門家として呼ばれることもあったのですが、いつもどこかで「自分は決して専門家ではない」という思いがありました。ボクが学んできた時代には、もう大学や研究所にいて職業病の患者に出会うことはほとんどありませんでした。一度も見たことがない職業病のことを、いかにも知っているかのように話す(話さなければならない)自分自身にもだんだん嫌気がさすようになっていたころでした。
三重大学からは、公衆衛生学の准教授という立場で誘っていただきました。50歳を過ぎてからのことですから、研究で大きな成果をなどと考えることもできません。ただ、それまでの経験を今の学生たちに伝えることができればと思っていました。
教員としての仕事は楽しく、やりがいも感じていたのですが、今度は人間関係に苦しむことになりました。大学という組織はとても大きなものですが、その中の「講座(教室)」という単位から見れば、10人にも満たない零細企業の集まりといってもよいかもしれません。集まる人間にも特徴があり、何かとトラブルも起こりやすいものです。次々と難しいことがある中での2年間、あっという間に居られなくなりました。
大学を卒業してから26年、数えてみるとひまわり診療所が5つ目の職場です。大学院で労働衛生を学んでから、労働者の健康のために働きたいと考えながら、理想と現実のギャップに悩みました。単に自分の努力が足りなかっただけなのかもしれませんが、産業の中心が製造業からサービス業へと移り変わってゆく中で、自分のやりたいことと社会から求められることがひどくずれてしまったようにも思います。
2008年に労研に移ったころから、研究室の中で統計などの数字を読み解くだけではなく、もう一度医療の現場で患者の言葉に耳を傾けながら、働くことと健康について考えないとだめだなあと思うようになってはいたのですが、長らく臨床から離れていたこともあって決心することはできませんでした。
その一方で、やはり2008年ごろからひまわり診療所でアルバイトの医師として勤務させてもらったり、東京労働安全衛生センターの皆さんと一緒に仕事をさせてもらったりする中で、ここでなら自分の考えていたことに少しは近づけるような気がして、三重大学を辞めると決めた時、平野先生にひまわりで働きたいとお願いすることになりました。
ひまわり診療所にきてもうすぐ3年になります。研究所や大学にいた時のように、学会に参加したり、海外へ出かけることもなくなりました。今のボクにとっては、ほぼ診察室だけが外の世界との接点です。それでもここに来て、ようやく職業病の患者に出会い、町工場や建設現場で働く人たちのことを知り、外国人労働者のことを知ることができました。長い回り道ではあったけれど、これでよかったのかなと思っています。
一年間、4回にもわたっての自己紹介となってしまいました。うまく書ききれなかったところもありますが、ボクがどういう人間なのか少しでも伝われば幸いです。