ひらの亀戸ひまわり診療所
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2015年秋号 第92号

シュプレヒコールの声は止まない

所長 毛利 一平

 この夏、テレビでずいぶんとたくさんの、太平洋戦争・第二次大戦にまつわる番組を見たように思います。

 戦後70年といったって、節目というには50年、60年と大して変わらないよなあ、などとのんきに考えならテレビの前でボーっとしていて、そのうち、そうか、今戦争体験を語っている人たちは、次の10年後にまた語ることができるとは限らない、恐らくその可能性はとても小さいのだということに気づきました。戦争の記憶が消えていく…

 小学生の頃の私は、多くの男の子たちが恐らくそうであったように、軍艦と戦車と戦闘機が好きでした。年に二回、お祭りの日と正月にもらったおこずかい(お年玉)は、街でたった一軒のおもちゃ屋さんで、軍艦か戦車か戦闘機のプラモデルを買うためにこそありました。学校の授業では一度も教わりませんでしたが、日本海軍がなぜミッドウェー海戦で負けたのかも知っていました。

 そんな私が正反対に変わり始めたのは、多分母方の祖父母の家で過ごした、ある年の夏からだったと思います。私の母とその両親は、満州からの引揚者です。戦後は岡山の山の中の開拓地で牛を飼って生計を立てていました。牛たちのいる風景はいつ見ても新鮮で、また祖父母もいつも優しく接してくれたので大好きでした。

 その年の夏も、いつもと同じように山の上の祖父母の家で過ごしていました。ある晩、夕食を終えてテレビに向かいました。大好きなアニメ(太平洋戦争を題材にしたドキュメンタリータッチのアニメ。あのころ、そんなものがあったんです)を見ようと思っていたのですが、祖父が烈火のごとく怒ってどうしても見せてもらえませんでした。

 私はといえば、祖父がどうしてそれほどまでに怒るのか、どうして私の好きな番組を見せてくれないのか、理解することができませんでした。祖父がその後私に向かって怒った記憶はありません。

 私もそのときの怒りの原因を直接聞くことはしませんでしたし、祖父は死ぬまで自らの経験を話すことはありませんでした。が、やがて祖母から、そして母から、苦しかった日本に帰ってくるまでの道のりを聞くことで、ようやくあの時の祖父の怒りを、少しだけ理解できたように思いました。

 言葉に尽くせないほどたくさんの悲劇を経験した果てに、「もう武器は持たないよ!」と誓ったはずの日本。それが自衛隊もできて長い時間が経ち、記憶も薄れてきたところだからとでもいうのでしょうか、「平和のために(進んで)武器を取ります!」と、先の国会では安全保障関連法案なるものが可決されました。

 武器を持った兵士たちが向き合うことで平和が保たれるなんて、これまで世界のあちこちで失敗ばかり続けているのに、ずいぶんと古臭い考え方だと思います。

 この夏、安保法案を巡る議論が国民の中で深まったことで、法案の可決という結果の一方で、70年前の戦争の記憶ははっきりと若い世代に引き継がれたと感じました。記憶が引き継がれ、祖父の世代の思いがつながる限り、「平和を守ろう」、「憲法を守ろう」というシュプレヒコールの声が止むことはないと信じています。

※シュプレヒコールとは、大勢の人が一緒に声を上げること。

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