(Hさん52歳。腰痛で故郷に帰ろうとしていた時、隅田川相談会と出会い、現在浅草近辺でボランティア活動を続ける)
高:もともとのお生まれは?
H :大阪です。
高:大阪の人がどうして東京に?
H:高校を卒業して教育出版の会社に入社したものの、友人といろいろな話をする中で、大学に行きたいと考えるようになり、玉川大学に行きました。そこで教育関係の仕事に就こうと当初は漠然と考えていたのですが、卒業するころになると「もういいか」と考えが変わって、大手のゼネコンに就職しました。そして普通の人よりも早かったのですが、24歳で結婚し、26歳の時に娘ができました。その頃はまだバブルがはじける直前でしたが、ある友人が設備会社を始めるので、連帯保証人になってほしいと頼まれ、友人2人でなりました。ところがその後バブルがはじけ、設備会社の友人は、ある日いつものように弁当をもって出かけたまま帰ってこなくなったのです。妻子を置いたままです。今もどこにいるのかわかりません。私と友人は、結局銀行から連帯保証人としての返済を求められ、私が4千万円。もう一人が5千万円でした。結局、いろいろと仕事をしても、その返済に追い回される日々が続きました。私は、預貯金を下して払いましたし、まだ40代でしたが、早期退職だと上乗せ分があるので、これに応じました。勿論それでも足りず、女房が福島出身であったので、白河で次の会社を探し、働いた30万円の内15万円位は毎月支払っていました。
高:銀行というのは、住まいが変わってもすぐにわかるのですか?
H:私の方からは一切連絡していませんが、住民票や携帯電話会社から情報を得ていたようです。この会社を4~5年やりましたが、銀行への支払い分が多くて女房とは離婚しました。その後、東京の青梅の会社に勤めました。そこでの仕事が中腰で仕事を続けなければならず、この為、ひどい腰痛になってしまいました。又、小さい頃から、アナフラキシーショックがあり、腰痛があっても、麻酔を打つことができないのです。この為、青梅の会社も退職せざるを得ませんでした。
高:その後は?
H:大阪に戻ろうと思っていましたが、浅草に行ったことがなかったので行き、そこで「一匙の会」の方や隅田川相談会の方に出会ったのです。たまたま日曜日に相談会に行き、知らぬ間に「ひまわり診療所」に来て、生活保護の申請をし認められたのです。今は、コスモスで週何日か働き、あとはボランティアをしています。
(大変残念ですが、このインタビューは次号に続きます。)