ひらの亀戸ひまわり診療所
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2013年3月 第82号

故 郷(ふるさと)

下地 るみえ

 私は、1962年に石垣島で生まれました。

 石垣島と言われると青い空、青い海というイメージを描くかと思います。しかし、常夏の島・沖縄も、あの沖縄戦で20万人以上の尊い命が失われ、その後米軍による支配が続き、特に1952年4月28日の「サンフランシスコ講和条約」により、日本「本土」から切り離され多くの米軍基地が造られました。

 私が、住んでいた地域は石垣市内の新川地区といい、沖縄島、宮古島、与那国島出身者が多数住んでいて、今も思い出されるのが、子供どうし良く遊びよく喧嘩もしました。遊んでいてお腹がすくと近くのさとうきび畑へ行き、甘そうなキビを勝手に食べたものです。

 私の両親は農家で、幼少の頃から両親と共によく畑へ行きました。畑への往復途中、広い土地に金網がありそこを通過するとき、黒い大きなシェパードが数頭金網越しに吠え、今にも飛び掛かってきそうでとても怖かった記憶があります。そこは、米軍の住宅が数軒あり未だに何の役割をしていたかは不明ですが、石垣島には一カ所だけだったと思います。

 そのような中、沖縄全体で、大規模な「復帰」運動があったようです。私の4歳違いの姉も、「復帰」運動の提灯行列に参加していたそうです。そして、1972年5月15日、私が10歳の時沖縄は「復帰」。今まで、使用していたお金がドルから円と変わり、1ドルが360円とお金が変わるのに不思議な感じがしていました・・・その後、右側通行から左側通行へと変更され、そのときには交通事故も、多発していたようです。まさに「世変わり」の世界でした。石垣島では、米軍住宅も米人もあの怖かった犬も居なくなり、その場所は公園に変わりよく遊びに行きました。beach

 しかし、あの「復帰」から今年で41年が経ちますが、沖縄島では、「復帰」前と変わらず、日本の米軍基地の74%が押し付けられ、昨年末民主党政権から自民党政権に変わり、欠陥機オスプレイが、配備されるなどますます危険なものを押し付けられ、憤りを感じます。

 これはもう沖縄差別以外の何物でもない。私は、我が故郷を安全・安心して住める平和な島へと願います。

 2年前、東日本大震災で沢山の方が被害に遭われているのに、政府の復興対策が遅れていることを私は危惧します。一刻も早く被災者の救済を希望します。

 福島第一原発事故による人災、被害が起こり、泣く泣く故郷を後にした方々が、今も沢山います。故郷に帰りたくても帰れない。

 政府と東電は責任をきちんととるべきだと思います。故郷で日常生活をしていた人々が、震災後大変不自由な生活をされていることはおかしいと思います。人々が、安心して安全な日常生活を送れるよう沖縄の人も福島(被災地)の人も要求することは当然の権利だと思います。

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