ひらの亀戸ひまわり診療所
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2011年7月20日 第75号

亀甲船

平賀萬里子

 5月末、久しぶりに韓国へ行った。釜山の空港では、放射能検査を受けた。今回の旅は「豊臣秀吉の朝鮮侵略と李瞬臣の奇跡を尋ねるツアー」だ。今から400年程前の1592年、豊臣秀吉はアジア大陸を征服する野望を実現しようと朝鮮を侵略する。これが日本で言う〝文禄慶長の役〟。韓国では〝壬辰倭乱〟という。李瞬臣という人は、この壬辰倭乱の時の朝鮮水軍の大将であった人。

 私達はまず、朝鮮半島南部に残っている、30あまりの日本軍が築城した城(倭城)の一つ、釜山から近い蔚山、西生浦倭城を見に行くことにした。加藤清正が1年あまりで作らせたというその城は、今は石垣を残すのみだが、規模も大きく、石の積み方も、独特なカーブも日本式そのものだ。今は公園となっているが、人影はほとんどない。異国の片田舎のはずなのに、奇妙な感覚にとらわれた。

 翌日、200㎞をバスで移動し,麗水という港町に到着する。名物の蟹醤(ケジャン)を昼食に食べてから港に向かう。そこでは李瞬臣将軍が完成させ、実戦で用いた船を実物大で見る。35mの船体は松の木で作られ硬い。屋根があり、薄い鉄板が張られて甲羅のよう。更にその上に鉄の槍が植えられている。

 櫂は船の中で操るようになっていて、斬り込みを得意とする日本軍は、ほんろうされただろう。

 来年、麗水でエキスポ博が開かれるとかで、町のあちこちは大規模な工事中だ。港ではムール貝が山のようにトラックに積み込まれていた。「いりこ」がおいしそうなので買うことにした。一塊り6,500ウオンだが、山のようだ。量が多すぎて友人と分けた。

 次の日、更に西に向かう。木浦に近い珍島だ。小さな島が密集している鳴梁海峡というところを高台から望む。この海峡は潮の流れが複雑でこの潮流現象を李瞬臣が巧みに利用し、日本水軍の退路を断ち、沈めたそうだ。日本の船は杉で出来ており、船底も鋭角でスピードは速いが、衝撃には弱かったそうだ。朝鮮軍12隻で日本船133隻を沈めたという話を、日本から26年前に珍島に嫁ぎ、観光課で働く瀧口さんという女性が説明してくれた。その後、ここで戦死した日本の来島水軍(愛媛)の兵士を埋葬したという墓に案内された。山肌のあちこちにこんもりと土が盛られた朝鮮式の墓地だ。

 通りすがりの80代の農夫も足を止め、日本語で説明してくれた。

 珍島は、天道よしみが歌う海割れの島だが、こんな歴史も抱えていたのだ。「これから兵役中の息子に江原道へ面会に行く」と嬉しそうな瀧口さんに別れを告げ、激戦の地、晋州に向かう。晋州城は、7万人ほどの朝鮮の人々が犠牲になったところだ。勝利した日本軍の宴で酔った日本の将軍を崖の上に誘い、我が身もろとも飛び込んだ有名な「妊生」の話がある。たまたま、私たちが行った日は、この「妊生」と「論介」を称えて毎年行われている祭りの日だった。

 日本から歴史を学んで来ているグループだということで、えらく歓迎された。途中、体調を崩した私はホテルに戻ったが、夜の食事の時も、市の関係者が来て挨拶をされたそうだ。その夕食も、近くの川(南江)で取れたうなぎが美味しかったと翌日報告を受けた。

 朝鮮水軍の戦いは見事であったが、計り知れない被害もあった。日本軍の行為は残虐で、捕らえた朝鮮の人々の鼻をそぎ、塩漬けにして日本に送った。その数、数万に及ぶという。その数で恩賞が決められたのだ。京都方広寺近くにある耳塚は、それを埋めたものだ。

 寺、宮殿を焼き尽くし、美術品を略奪し、多くの陶工を拉致した。有田、萩、伊万里、薩摩などの焼き物は、連行された陶工たちが悲しみをこらえつつ拓いた窯である。

 又、技術を持たない多くの人々も拉致し、彼らを日本国内には留まらせず、ポルトガルを経由して数万人の人々が奴隷としてヨーロッパに売られている。

 敗戦の色濃い最中、豊臣秀吉は病を得て死ぬ。そして無意味な戦争は終わったのだった。

 その後、徳川家康は国交回復に努め、通信使を迎え、交流は活発となった。しかし、それから三百有余年を経て、日本は再びこの地を侵略するのだ。

 日本は豊臣秀吉を英雄化させたが、私たち日本人は無知であってはならない。そんな事実は知らなかったとか、学校で教わらなかった歴史であるかもしれない。しかし、私たちはもっと真実を知ろうとする努力をするべきだ。「謝罪」するとは、歴史を知ることから始められるべきだと思う。今回の旅で、改めてそのことを痛感した。

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