ひらの亀戸ひまわり診療所

インタビュー高山

【Kさん。現在66歳。中学卒業後直ぐに随道工事に従事。45歳の時、じん肺管理2。58歳の時、続発性気管支炎の合併症にて労災が決定。】

(問)どうして中学卒業後、直ぐにトンネル工事をやろうとされたのですか?

(K)私が中学卒業したのはS32年。その頃、地方から東京へ「金の卵」と言われて集団就職する人はあっても、トンネル堀りをする人はいなかったね。若者に限らず、この仕事についてる人は、何か問題を抱えていたり、食い詰めていたり、と言う人が多かった。手っ取り早く金になるからね。私もあまり真面目に学校へ行っていた方ではなかった。それで、あるところに出入りしていたら、そこの人に誘われて一緒に15〜6人で、青梅線終点の氷川駅から入る小河内ダムに行ったのが最初。

(問)そこでの仕事はどんな仕事を?

(K)最初は何も分からないから削岩機の先を持つような仕事だったけど、穴の掘り方も年代によって違うんだよね。S30年代は「外来工法」わたし等は電車のレールみたいなので「レール工法」と言ってたけどね。山が崩れないように6尺×6尺で穴を開ける。その後、中割、第二、第一、丸型と言った順に崩していく。ただ、山と言っても土ではなく岩石。だから削岩機で掘ると辺りは石の粉で一杯。それが、40年代には「トラック工法」に変わる。更に55年頃からは「ナトム工法」というものになって現在まで続いている。ナトム工法は、一気に正面から掘っていく。そのかわり、それまでに崩れないよう良く調査して、薬を注入して固めてからいっぺんにやる。

(問)一ヶ所にいるのは、どのくらいの期間なんですか?

(K)大体は数ヶ月から半年。長いトンネルだと1年くらいの場合もある。年に4回も移動したこともあるよ。

(問)次の仕事はどう探すんですか?

(K)横の連絡だね。やっている仕事が終わりそうになると、仲間に連絡する。仕事がないかと。そこへ呼ばれることもあるし、別のところを紹介してもらうこともある。私の場合は、元請が大きなゼネコンが殆どだった。

(問)どういう現場が多かったんですか?

(K)一番はダム工事。次が30年代になって、新幹線関係、東名高速道路関係かな。

(問)そこで働く人たちとどんなことを話すんですか?

(K)みんな、自分の昔の事は話さないね。だから、どこの県の出身者が多いとか、それ以前どんな仕事をしていたかとか、どんなきっかけで、こうした仕事をすることになったとか、話した事はないね。

(問)労災のことはどうですか?

(K)よく、炭鉱の人に聞くと、「じん肺」のことなんか聞かされていなかったと言うけど、私らのとこでは、よく言われていたね。「珪肺」と言われていたけどね。だから、最初に私が管理2になった時、社長は、「まだ2だろう。富山に仕事があるが、行くか?」なんて言っていた。だけど、今考えると、私は若くて認定されたから、病気であっても人生を楽しんでいるけど、中には、折角認定されても、数年で死んでしまう人もいる。それじゃ、意味ないよ。

(インタビューが1時間にもなった。徐々に咳き込んで話が途絶えた。Kさんの「進行性の病気だから、早く認定が取れ、残りの人生を豊かに生きる事が出来るような、労災の制度に出来たら」という言葉が印象に残った。)

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