ひらの亀戸ひまわり診療所

インタビュー高山

 【Aさん。現在86歳。東京都出身。戦前の女学校を卒業後、軍令部に勤務】

(問)Aさんは86歳と伺いましたが、ずいぶんお元気ですね。

(答)1922年生まれです。

(問)そうしますと、疎開なんかもずいぶん御経験されていらっしゃるんですね。

(答)はい。柏の方に家族で疎開しておりました。ただ、職場が東京の三田、麻布二の橋でしたから、私は電車で通勤していたのですが。

(問)通勤て簡単におっしゃいますが、相当混雑があったのではないですか?

(答)いや、それほどでもありませんでした。ただ、乗車中に機銃掃射で襲われることを想定して、電車の中の椅子を窓側に持ち上げて、機銃掃射を避ける訓練はしましたが、襲われたことはありませんでした。

(問)軍令部の勤務というのは、どのような御仕事をされていたんですか?

(答)仕事はタイピストでした。そこで戦史を作っていたんです。戦争に勝っていれば、本として残ったかもしれませんが,敗けたので、どうなってしまったか、分かりません。

(問)柏への疎開は終戦まで続いたのですか?

(答)いいえ、1945年の6月頃に山中湖にあるニューグランドホテルに疎開しました。

(問)柏に疎開される前は亀戸にいらっしゃったと、伺いましたが。

(答)亀戸6丁目でした。今もそこに住んでいますが、3月9日〜10日の東京大空襲で焼け野原になってしまっていました。実は、柏に疎開したのは、昭和17年です。もともと現在の場所に、家と工場がありました。それを家作ごと売却して柏へ行ったのですが、空襲の後で見たらまったく何もありませんでした。それで戦後その土地を萩寺が持っているということで、交渉して手に入れたわけです。

(問)3月9日〜10日の空襲は直接体験されることはなかったが、その後の様子をご覧になったということですか?

(答)はい。ともかく何もなかった。亀戸駅に人が相当逃げ込んで、蒸し焼きになってしまったという話を聞いています。それと、亡くなった方が多かったので、人の油がそこここについていると言われ、駅には怖くていけませんでした。亀戸や大島辺りの人たちで助かった人は、船堀橋を渡って船堀方面に逃げた人だと聞きました。あそこら辺は、まだ繁華街でなくて、農地だったからでしょうかね。

(問)戦前の話で面白いお話はありますか?

(答)おもしろいかどうか、亀戸には、かなり大きな工場がたくさんあって、女工さんたちがたくさんいました。みんな田舎から出てきている。でも電話などというものは、限られた商売をしているところにしかない。そこで彼女たちは郷里に元気であることを伝えるのに、写真を撮って送ったんです。昭和15〜6年頃の話です。写真屋さんの支店のようなものが亀戸6丁目にあった。本店は江戸川です。お客さんが来ると、電話して本店から撮りに来る。それでずいぶん儲かったと、写真屋さんの知人が話してくれました。又、十三間通りには、たくさんの店があって、中には農機具を売っているような店もあった。そんな店に埼玉県の幸手あたりから、自転車で農機具を買いに来ている人がいた。どうしてあそこに来たのか、何か理由があるのか分かりませんが。それにあそこでは、夜店もやっていましたね。一番印象が強いのは、今のトイザラスの以前の建物はセイコーですが、その前は何とかという紡績工場だった。あの前の道路から向こうの亀戸駅周辺は、雨が一度降ると、なかなか水が引かない。水が引くまで何日もかかる。そのためか、あのあたり一帯はなかなか建物が建たなかった。その内、いつであったか覚えていませんが、そこに一軒の音楽を教える建物が建った。行った事はなかったので、何を教えていたのか分かりませんが。

(大変面白い話がたくさんありました。ご本人もこんな古い話を聞いていただいてすっきりした、とおっしゃっていました。)

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