ひらの亀戸ひまわり診療所

インタビュー高山

【Uさん。現在71歳。山形県出身。中学を卒業後、数年の間人の紹介で仕事を転々としたが、18歳の時、東京で塗装の仕事があると紹介されて就職。以来、40年位従事する。50歳頃、仕事の塗装が原因の有機溶剤中毒にて、労災が決定。】

(問)塗装の仕事に就くまではどんな仕事されていたのですか?

(答)中学を卒業しても仕事がないので、知り合いの人に紹介されて神奈川県の三浦大根の農家に寝泊りして仕事をしたな。そん時は毎日大根を抜くのが仕事。大変だったので、1年くらいでやめた。

(問)その後は?

(答)その後、自分の身内で職安に勤めている人がいて、その人の紹介で石川県の機織の仕事を手伝いに行った。このときは友達と一緒だったけど、1年位してその友達が辞めると言ったので、自分も辞めた。

(問)その後は、山形に戻ったんですか?

(答)そうね。それから今度は東京で塗装の仕事があるけどどうか、という話が、当時は、そういった仲介をしてくれる人がいたんだよね。今はいないけど。その仕事は何人か住み込みでやる仕事で、同級生も先に行ってやっているというんだ。

(問)場所は東京のどこ?

(答)江東区大島までは覚えているんだけど、後は分からない。

(問)そこの住み込みは何人?

(答)当時は3人で、後から親方の息子がやるようになった。当時は弟子なんて言わずに「丁稚」(でっち)といったね。

(問)そこで大変だったことありますか?

(答)休みがないんだ、年間通しても数日しか。日曜も祭日もないんだよ。だから、もらうお金も多くはないんだけど、少ない休みの日に、錦糸町で映画を見たり、食事をしたりで、すぐなくなっちゃって貯まらないんだ。

(問)そんなに休みがなくて、辞めようとは思わなかったんですか?

(答)思ったよ。だけど、そんな話を兄弟子に話すと、どこへ行っても同じだよ、って言われて、我慢することにしたんだな。その兄弟子は中学の同級生だから。

(問)独立したのはいつですか?

(答)22歳か23歳の頃。その後、今じゃ分からないだろうけど、お礼奉公というのがあって、3年間親方のところにいたな。だから独立はその後、26歳位だったかな。この時は完全に独立です。

(問)ご結婚は?

(答)29歳の時だけど、仲人になってくれる人がいて、今でいう見合いだね。村は違うけど山形の出だよ。

(問)私が墨東病院に勤務しているとき、奥さんが相談に見えたんですよ。それが、それまでUさんは我孫子の病院に入院していたけど、そこが潰れたので、何科にかかったら良いか、という相談だった。症状を聞いて、仕事を聞いたら、私はピーンと来た。それで葛西中央病院に勤務していた平野先生に電話したら、有機溶剤中毒の可能性があると言われたんですよ。

(答)俺はぜんぜん覚えていない。女房がみんなやってくれたんだね。それで、葛西病院に行ったんだ。

(問)そこで、いろいろな方の力を借りて労災申請して、認定されたわけですよ。ところで奥さんはお元気ですか?

(答)いや、いつだったかな、足の具合が悪くなってね。今は車椅子を押しながら買い物行ったり、病院行ったりしてるよ。

(問)Uさんは今どうしていらっしゃるの?

(答)塗装ができなくなって、掃除の仕事をしてたけど、今は公園の掃除を週3回やっているよ。

(Uさんは今も呂律が上手く廻らない。聴き取るのに何度も聞き返した。私は溶剤の後遺症だと考えている)

Copyright © 2003 - 2019 Himawari Clinic. All rights reserved.