ひらの亀戸ひまわり診療所

全国じん肺患者同盟東京東部支部長 片柳元二

 昭和21年に北海道夕張炭鉱に入社し、昭和53年に退職して墨田区の鉄工所に入社しました。定年間近に咳や痰が出始め、社内健診で「結核」といわれました。咳や痰が出るので、会社の仲間からは嫌な目で見られ、係長の職を辞退しました。その後、妻と相談し退職することにしました。そのとき、部長に呼ばれ「定年まで頑張ったらどうか」といわれましたが、会社に迷惑をかけるからと言って退職することに決めました。23年間働いた会社ですから心の中では寂しい気持ちもありました。墨東病院でも「結核」といわれ、2年くらいしてから娘がラジオでじん肺の話を聞いていて、芝病院にじん肺を診る海老原先生がいるということで、一度診察を受けようかと、主治医である平野先生がまだ葛西中央病院にいるときにその話をしました。先生は「芝病院に行かなくとも私が診るから」とのことで、病気の説明をしてくれました。この病気は炭鉱で長く働いていたから粉塵を吸っておきた病気だということ。炭鉱を辞めて3年から5年というなら出ないが、15年から20年経つと出る病気だと言われ、びっくりし、がっかりもしました。頭の中が真っ白になりました。その時先生から「この病院に同じ病気の人たちがいるので、その仲間に入ったらどうか。家にいると良くない」といわれました。その後すぐに塵肺の手続きをしていただき、「管理3(ロ)」に続発性気管支炎の合併症ということで労災の認定がおりました。それからは月一度の診察が楽しみになりました。そしてじん肺の仲間の話を聞いている内に少しづつじん肺のことが分かり始めました。この病気は一生治らないそうです。平野先生が亀戸6丁目に診療所を開いて、北茨城のじん肺患者さんたちに会えるようになり、少しづつ仲間が増えてきました。そのうち、北茨城と交流を始めました。最近ではアスベストの仲間も出来ました。いろいろな仲間と交流をしていきたいと思っています。だから多くの仲間達がじん肺のため、一人、二人といなくなることは、淋しいことです。いづれ自分も行く道だけど、昔炭鉱で働いていた仲間、鉄工所の仲間のことを一人で家にいる時、懐かしく思うこのごろです。

 ひまわり診療所の中にじん肺患者同盟東京東部支部という患者同士の会を作り、月に一度仲間と話し合う場所が出来、いろいろな話が聞けるようになりました。ある日相談をしているとき、仲間の一人が「前向きに生きていこうよ。人生一生のうちにはいろいろあるさ」それを聞いているうちに勇気が出てきました。私も70歳を過ぎ、昔なら終わりの人生です。あと何年生きられるか分からないけれど、一日一日を頑張っていこうと思います。これまで70歳まで生きられたら良いと思っていました。が、平野先生、東京センターの皆様のおかげで、私も80歳近くまで生きられ、よくここまで頑張れたと思います。これも仲間と会うたびに「身体に気をつけて」と言葉を掛けてくれるおかげだと感謝しています。これからも仲間達のために命ある限り頑張っていこうと思いますので、仲間の皆様、よろしくお願いいたします。

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