ひらの亀戸ひまわり診療所
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2019年秋号 第108号

神田川の下流を歩く

医師 名取 雄司

 山の手線をほぼ真中で東西に横切る中央線や総武線の四谷から飯田橋の車窓から、江戸城のお堀が見える。特に桜の時期は鮮やかだが、飯田橋を過ぎると線路は神田川と並走する。

 今年たまたま『神田川』という文庫本を読んだ。神田川は東京の西の吉祥寺井之頭池から始まる神田川、荻窪西北の善福寺池から始まる善福寺川、中央線北側を落合まで平行に走る妙正寺川の3河川が合流した(一級河川だが)東京の中小河川の代表の様な川だ。飯田橋の隣に総武線の水道橋駅があるが、水道の橋は今水道橋にない。江戸時代には神田川を北から南へまたぐ神田上水の木樋の水道橋があり、ヒノキの寄木の木樋が京橋、日本橋、神田、大手町まで縦横に連結され井戸の枡は3600もあったそうだ。神田上水は、飯田橋北西の文京区関口(せきぐち)の椿山荘の下で取水され神田上水を通って後楽園ドーム隣の小石川後楽園池に貯まり、水道橋を通り昔の江戸に流れたらしい。関口の海抜は8.5メートル、神田小川町の海抜が4.5メートル(参考:新潮文庫『神田川』)だから、江戸が1700年当時人口100万人の世界的近代都市となった背景に汚染させない上水供給技術があったことがわかる。

 ひまわり診療所の帰りに歩いてみようと思い、亀戸駅から3駅西の総武線の浅草橋駅でおりた。人形問屋街を通り抜け、神田川の隅田川合流部まで5分、神田川の川下から上流に向かって歩き始めた。神田川と隅田川の合流部に行って、初めに出会うのが柳橋だ。柳橋は川を見たり船で下ったりする事を含め有名な花柳界街だったそうだ。川の汚れと高い堤防のせいで料亭街はほぼ消失し、6~7店の屋形船屋が過去の栄華を微かに漂わしている。浅草橋から秋葉原駅方向に向かって神田川の北側を歩くと、美倉橋と和泉橋の間の北側に神田佐久間河岸という町名がわずかに残り、時代小説に時々でてくる街だ。橋にある観光案内の古地図には、「諸国から運ばれた米、酒、薪、炭、材木、石、土がそれぞれの河岸で陸揚げされた」と書いてある。JR秋葉原駅の東「ヨドバシアキバ」側を少し南側に歩くと、公園の中に橋の門柱が2個残り「さくまばし」という文字が見える。佐久間橋は、以前秋葉原青物河岸の入口で神田川から船で野菜が届き、その後秋葉原駅は貨物専用駅だったそうだ。

神輿

 水道橋からお茶の水と秋葉原の間、神田川は妙に深い谷を流れる。なぜだろうと昔から不思議に思っていたが、ここは新神田川放水路と呼ぶべき掘削なのだそうだ。元の神田川は飯田橋から南に向かい日本橋を通り神田川(平川)と言われ、確かに飯田橋と水道橋の間には南に向かう元の川が残る。徳川家康は、洪水防止と江戸城警護と諸大名に大金を使わせるために本郷台地を各地の大名に掘割させ、水道橋から真っ直ぐにお茶の水と秋葉原を通る現在の神田川に水路を変更させた。掘削した土砂は、銀座、日比谷、浜町など中央区の大半と千代田区の埋め立てに使用されたらしい。

 お茶の水と学校、音羽の紙漉きと講談社など出版社、等神田川にはおもしろい話は多いが、それには更に上流へ歩かないといけない。

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